PRESIDENT BLOG

フクール
社長ブログ

ITで地域と企業を元気にする会社、株式会社フクールの福崎です。 役にたつ情報・・・・も少しはあるかもしれませんが(笑)、だいたいが他愛もない事だと思います! もし、良かったら読んでください。

株式会社フクールの社長ブログです
フクール社長のひとり言

ユマニチュード

フランスのある体育学者が、医療や介護の現場において、ケアを受ける⼈を「対象」ではなく、感情や意思をもつひとりの「⼈間」として捉える姿勢の⼤切さを提唱した。そして、それらを単なる哲学ではなく、認知症や⾼齢者のケアの場で実践できるように、具体的な技術に体系化した。それがユマニチュードと呼ばれる。「あなたは⼤切な存在です」として向き合う技法。現在では、教育や看護の分野でも徐々に普及しているらしい。

相⼿の⽬を⾒る。優しい⾔葉をかける。⾝体に触れる。⾃律(⾃⽴)を促す。これらを四つの⾏動指針として、介護の実践に⼊っていく。これらは、介護だけではなく、対⼈関係のあらゆる場⾯で⼤切にしたい姿勢だと思った。

ただ、⾔葉で⾔うのは簡単で、実際の現場で実践するのはなかなか難しいのが現実。特に医療や介護の現場では”構造”が邪魔をする。利⽤者が増えないとコストは下がらない。だけど、それを補うをほどの⼈的リソースはない。慢性的な⼈⼿不⾜。⼈を呼ぼうとして、
スタッフの報酬をあげようとすると、利⽤者の負担が⼤きくなり過ぎて誰も利⽤出来なくなる。だから医療費は⾏政が管理し、病院や施設側の独⾃性は出しにくい。

そんな”構造”を⼀つのテーマとした映画の話。

『急に具合が悪くなる』。⼤好きな映画『悪は存在しない』の濱⼝⻯介監督の最新作。
余命宣告をされて、もう⻑く⽣きられない劇作家の⼥性と、⾼齢者介護施設でディレクター(現場責任者)として働く⼥性が奇跡的に出会い友情を育む物語。カンヌ国際映画祭に出品され、⼆⼈の主⼈公は同映画祭の⼥優賞も受賞された世界的にも評価の⾼い作品。私
もこの作品を観て、彼の映画独特の⾊と⾳の美しさを感じたし、⼈間の本質が飾ることなく表現される映像美にやられた。そして、『悪は存在しない』同様、さまざまなことを考えさせられて、観終わった後のモヤモヤ感も嬉しい感情だった。

展開が早いわけでも、派⼿なアクションがあるわけでもない。なのに、あっという間に 3時間が過ぎていった印象の作品。ほとり座でまだまだ公開中だからネタバレしないように詳細は省くけど、感じたことを書きたい。

舞台の⾼齢者介護施設で働く看護師⻑がいる。⼆⼈の主⼈公とは別⼈。だけど、とても重要な役。
彼⼥は、看護師になった当初、⼼の通った看護をしたかった。けど、医療現場でのさまざまな経験を積む中で”構造”の⼀部になってしまう。効率化やスピード、報酬などを求め出して、結果、施設にいる⽼⼈を 1 ⼈の⼈間ではなく、介護の対象者としてしか⾒られなく
なっていた。

その看護師⻑も、余命宣告された主⼈公と出会い、彼⼥の残り少ない命の時間を懸命に使う姿を⽬の当たりにする。そして、彼⼥の⼀瞬⼀瞬が、何ものにも替えられない”かけがえのない時間”だということを突きつけられる。そして気がつく。彼⼥だけではなく、すべての⼈の⼀瞬⼀瞬が”かけがいのない時間”なんだということを。⽬の前にいる⽼⼈も介護の対象者ではなく、1 ⼈の必死に⽣きている⼈だということを。

私たちもまた資本主義という”構造”の中で⽣きている。この”構造”はとても強固で逃れることは容易ではない。

”構造”が⼤きくなり過ぎる現代社会、あらゆるものが”構造”の中に埋め込まれていく。本来、「お年寄りのお世話をする」「⾃然に触れる」「家族との触れ合い」などは”構造”の外側にあったと思う。けど、それらは”介護”や”観光”、”核家族(消費⾏動単位)”に名前を変えて”構造”の中に居座りだした。

結果、”構造”の中の豊かさを⼿に⼊れようとすると、”構造”に従うしかない。豊かさを⼿に⼊れるはずがいつも何かに追われているように感じるのはこのためだと思う。このままだと、先の看護師⻑のように⼤切なことが⾒えなくなってしまうことがあるような気がする。⼤切なことを⾒失わないためには、また取り戻すためには、”構造”の外側に触れることが⼤切かもしれない。

⼼理学者のエリクソンが、⼀流の⼈物になるためには『意図的な練習』が必要だと提唱している。同じように、本当に豊かに⽣きるためには『意図的な構造からの脱出』が⼤切かもしれない。

”⾃然”や”歴史”、”⼈との関係””⾃分への問い”など、本来”構造の外側”に存在するものに意図的に触れることが⼤切かもしれない。そんなことをこの映画を観て思った。

 

経営者仲間のNさん、私のことが⼤好き過ぎて 2 週に 1 回、KOTELO に会いにくる。今週も会いに来た。

彼は⾔う。『KOTELO は遠い。だから、ここに来るまでの移動の時間にあれこれ考えられる。電話がかかってきても、すぐに対応出来ないから“今”に集中出来る。福崎さんはただただ話しを聞いてくれる。⾃然の中にあるから雑⾳がない。だから定期的に来ている』

思い上がりだった笑。
福崎さんは⼀部でしかなかった笑。
KOTELO が持っている機能が彼をここに向かわせていた。


彼の『意図的な構造からの脱出』が KOTELO ワークなのだと思う。彼はそれを定期的に⾏うことで「⼤切なこと」を「⼤切にする」経営を実践しようとしているんだと思う。

その KOTELO ワークの夜、Nさんは新⼊社員の 1 ⼈とご飯を⾷べに⾏くことをその場で決めて彼を誘っていた。悩める新⼊社員の彼を、説得するわけではなく、話を聴くために⾷事に⾏くらしい。「彼といろいろ話しをしていたけど、彼の話を聴いてなかった」と気付いたらしい。

『君⼦は⾔(げん)に訥(とつ)にして、⾏(こう)に敏(びん)ならんと欲す。』

論語の⼀節。⽴派な⼈は⼝数が少なく、⾔葉も不器⽤であっても、⾏動は素早くありたいと願うものだという意味。気がついて、すぐに LINE するNさんが素敵だった。

 

私は木曜日、フェアの実行委員長を務めた2人と食事に行った。フェアをどう総括して良いか、彼ら2人が迷いながら考えているようだったし、何を想い、何を考えているのかを聴きたかったからだ。


準備段階では「300人呼びます」「史上最高のフェアにします」と、二人は意気込みを語ってくれていた。ただ、実際にその言葉どおりの行動が伴っていたかというと、正直まだ道半ばだったと思う。いつもの私らしく言うと、有言実行にはまだ"伸びしろ"がある実行委員長だった。


そのことは本人たちも自覚していて、「情けなかった」「恥ずかしい」「実行委員長になった時点がピークだったかもしれない」と振り返っていた。けれど、何を反省すれば良いのかは、まだうまく言葉にできていなかった。彼らは「"自分が実行委員長の今回のフェア"を、良いものにしたい」というマインドだった。「自分が」が、まずありきだったのだ。


省みるべきは、実行委員長という仕事そのもの。実行委員長という役割を1から考えるところから始める必要がある。そんな話をした。彼らの心に届いたかどうかは分からない。けれど、苦しかったのは彼らだと思ったから、私は私の時間を彼らに使いたかった。後日、二人からしっかりと総括をもらおうと思う。二人ならできると信じている。


彼ら二人とは話ができたけれど、フェアをめぐるもう一つの問いはまだ解けていない。フェアの準備終盤、フェア当日、フェア直後、あらゆる場面で異口同音に聞いた言葉があった。


「毎年、こんな感じだ」「毎年、同じことを言っているような気がする」「毎年、同じことをやっている」という言葉。

「毎年、同じ・・・」これを言っていた一人ひとりに問いたい。
「それは、誰に対して放っている言葉なのですか?」


"あなた"はフェアの一部ではなく、"あなた"とフェアは離れているのですか? "あなた"は、フェアの主体者ではないのですか?
主体者であるならば、そんな外側からの意見は出てこないはずだ。なのに、多くのスタッフが先のような言葉を口にしていた。社員の大多数がそんな状態だったということ。そんな、当事者意識が薄れがちな空気が、運営する私たち自身の姿勢として表れていたのかもしれない。

『その⾔のこれ怍(は)じざるは、則ちこれを為すに難し。』


また、論語。⾃分の⼝にした臆⾯もない広⾔を、はずかしいと思わないようでは、その言葉を実行に移すのは難しい――そんな意味だ。

「自分たちは、言葉が先に立ってしまっていました。」それを自覚した実行委員長2人の言葉が、耳に残っている。
その自覚から、すべてが始まる。


最後も映画の話しを。『時には懺悔を』という映画を観た。好きな映画『告⽩』の中島哲也監督の最新作だということや、宮藤官九郎さんが役者として出ているからという漠然とした理由。その程度の感覚で、あまり先⼊観なく観に⾏ったけど、感想は、すごく良かった。

これもまだ公開中で、もしかしたら観る⼈もいるかもしれないので、物語を語ることはしない。
公式サイトに書いてあるあらすじを頼りに…


1 ⼈の探偵が殺されたところから、この物語は始まる。その殺⼈事件の真相を探っていくと、9 年前の新⽣児誘拐事件にたどり着く。誘拐された⾚ん坊は重度の障害を持つ⼦供。
その⼦は、今も⽣きていて誘拐犯と共に暮らしている。その簡単には理解しがたい事実が、様々な⼤⼈の⼼を激しく揺さぶる。⼈間とは何か?親とは何か?命とは何か?を考えさせてくれた作品。


観てスッキリする映画ではない。本当にモヤモヤする映画。ただ、強烈に思ったのは『愛するということ』。


宮藤官九郎さん演じる誘拐犯。酒飲みでギャンブル好きで借⾦まみれ。奥さんに暴⼒も振るう典型的なダメ男。そんなダメ男の彼が、誘拐した重度の障害を持つ⼦と暮らす中で、どんどん変化していく。
2 時間に1回体勢を変えないといけない。排泄の⼿助けをする。ご飯を⾷べさせる。障害を持つ⼦供に対して⾏う介護の毎⽇が『その⼦への愛』になっていく。誘拐した⼦。⾃分の⼦ではない。⼀つだけわかっていたのは、この⼦にとって⽀えてくれる存在は⾃分しかいないということ。だから、⽀えた。与えた。


コビー博⼠の『7つの習慣』では、愛は⾏動だと書かれている。
エイリッヒフロムの『愛するということ』では、愛とは偶然落ちる「感情」ではなく、修練を積んで⾝につける能動的な「技術」である書かれている。


⾃分の⼦供だとか、⽋点があるとか、かわいいとかかわいくないとか何も関係ない。与えて与えて与え続けるから愛の対象になる。


会⻑が稲刈りをずっとしている。もちろん、私も⼀緒に。⾃然が相⼿だからやらなければならない。⾃然は⼈間の思い通りにならないから、夜遅くまで稲刈りをする。今⽇中に終わらせないといけない。
おかげで稲刈りが終わった。今年も美味しいお⽶が⾷べられる。美味しいお⽶は当たり前ではない。


ずっと稲刈りをすることは、シルバーウィークという”構造”の外側にいるということかもしれない。
おかげで豊かな時間になった。